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この難問を、折に触れ考えることがある。 自分で山に登っていて、むしろ辛かったり、苦しいと感じている時間が圧倒的に多いのに、下界に降りてくればまた山に戻りたくなる。いったいこれはどうしてなのか。 登山の何かに魅力を感じているからに違いないのだが、何かとは何か。 ひとつに、本当の自分を見つけられるからではないかと考えたことがある。 山では否が応でも自分自身を見つめることになり、しかも環境的にそこから逃れられない。そこで人間が本来持つ生きる力、野生の部分を、自分と対峙することで感じ取れることがたくさんある。 山に入ると長い時間自然と関わるからそうした経験をする機会も多いが、そんな貴重な経験に自分で気づかずにやり過ごしてしまうことも多いだろう。それはもったいないことのような気がする。だから、覚えていることは忘れないように書き留めておきたいと思う。登山の魅力とは何かの解答のひとつになればいい。 天気が予想できるようになったことがある。 気象情報や、気象の知識からではなく、身体感覚として予想できたのだ。 山ではないが、以前オーストラリアを自転車で旅していときのこと。行程のほとんどはテント泊だった。テントはもちろん薄い布一枚隔てて外気なわけだが、その空間で過ごしているとちょっとした湿度の違いも体がわかるようになってきたのだ。雨の前は晴れた昨日よりも空気が湿っていて、「今日は雨降りそうだ」と感じたりする。 その日もテントの中で目覚めると空気に湿気を感じた。朝のうち空は晴れていたものの昼前頃雨が降り出した。オーストラリアのその場所は決して雨季で決まったように雨が降るというわけではない。 日本の山でも泊まりで行くと、それこそ湿気具合、雲の動き、大気の霞みの程度などから経験的にも天気が予想できるようになることがある。とくにテント泊山行だと大気の具合を感じ取りやすいのは事実だ。 アウトドアは天候に大きく影響を受ける活動のためか、動物的に状況を察知しようとする感覚が自然と鋭敏になるのかもしれない。自分が優れているというわけではなく、これはリスクを回避して生命を維持しようとする生物の本能ではないだろうか。生きる野生の本能を、自然に直に触れることで呼び起こされるということだろうか。 山岳気象を知識として持って山に行くのも登山技術と言えるだろうけど、それに縋ることで山で目覚める野生の感覚をやり過ごしていないかと思った。気象予報では天気が崩れるはず、回復するはずと考えていても、実際の天候はそうはならないことも結構あった。「・・・のはず」は単なる思い込み。頭で考えているだけで、身体感覚として山を感じているわけではないのだろう。 天気予報を見ないで山に行け、なんていう気は毛頭ない。仕入れておくべき情報はあった方がいい。ただ、天気が身体感覚として予想できてしまう、ということを山に登ることで体験できることがおもしろいと思う。そういう経験が可能となるのが山に登る魅力と思うのだ。 常に海に出ている漁師は天候をずばり言い当てるなんていう話をよく耳にするが、それも分かるような気がする。常に山に登っている登山者も、きっと天候をずばり言い当てることができるに違いない。 マウンテンプロジェクト ガイド 三ツ堀信二