【プロフィール】

1965年生まれ。中学3年の時に日本登攀クラブに入会。'84〜'87年にかけて連続してヨセミテに通い、ハーフドーム北西壁ワンデイクライムやエル・キャピタン・ラーキング・フィア単独第3登などの記録を残す。その後はヨーロッパアルプス、パタゴニア、ヒマラヤとフィールドを広げる。
高所における高難度のクライミング実績、また卓越したソロクライミング技術は、国内外から世界屈指のクライマーと評価を受けている。

登山家の妙子夫人(旧姓長尾)と住む東京都奥多摩町の家は、いつでもトレーニングができるように天井や梁などに多くのホールド(手掛かり)を取付けてあり、また晴れた日には氷川屏風岩など近くのゲレンデでクライミングの感覚を磨いたりと、24時間365日山に浸りきりの生活を続け、2002年まで、冬は富士山でボッカ(荷揚げ)の仕事、夏は遠征というサイクルで活動していた。

2002年秋、ヒマラヤのギャチュンカン北壁の単独登頂に成功するものの、帰路に雪崩に遭い壮絶な生還劇の末に脱出するが、両手及び右足の指を計10本切り落とす代償を払うことになった。この登攀を含め近年の目覚しいアルパインスタイルでの登山が評価され、2002年度の朝日スポーツ大賞、2003年の植村直巳冒険大賞を受賞している。

手術後当初は木の枝にぶら下ることもできずにショックを受けたが、静養先の伊豆城ケ崎でフリークライミングを始める。そして2003年5月の奥多摩(御前山)をかわきりに、徐々に山登りに身体を慣らしていく。10月の中国四川省のトレッキング旅行では、1000mはあろうかというビッグウォールを見、新たな挑戦欲を感じる。

復帰第一戦は中国のビックウォールと狙いを定め、積雪期の谷川岳一ノ倉沢第4ルンゼや八ヶ岳阿弥陀岳北西稜、瑞牆山・小川山の岩場でトレーニングを重ねる。2004年8月、ビッグウォールの『ポタラ北壁』に挑戦するも、連日の悪天候のため試登に終わる。

2005年は八ヶ岳、甲斐駒ケ岳、北海道層雲峡でのアイスクライミング、ソロで穂高屏風岩を攀じるなどして体力をつけ技術を磨き、難易度5.12を登れるようになる。そして7月、2年がかりのポタラ北壁を7日間かけてついに完登する。

2004年3月、初めての著書「垂直の記憶」(山と渓谷社)を発刊。ギャチュンカンからの生還は、2005年9月に新潮社から「凍」(沢木耕太郎著)としてドキュメンタリー本が出ている。

記事一覧へもどる