世界一周報告

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毎日新聞夕刊コラム、上海交差点《8万人のごめんなさい》

  =隅俊之記者 2012年9月24日より

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粉々に窓ガラスが砕けた日本料理店の前で記念写真を撮る者。日系スーパーに石が投げ込まれるのを見て「もっとやれ」と笑う者。百貨店から高級ブランド品を略奪する者もいた。

 

 そうか、中国人は落ちるところまで落ちたのか。目の前の光景に、そう思うしかなかった。中国各地で起きた反日デモ。自分の考えを表明するのは正当な権利だ。だが、欲望のままに暴動の限りを尽くす群衆に、怒りと失望と、そして悲しさが胸を駆け巡った。

 

 ただ、伝えなきゃいけないことがある。中国人はそれだけではない。

 

 雲南省と貴州省の省境で7日、マグニチュード(M)5.7の地震があった。昨秋から中国各地を自転車でまわりながらボランティア活動を続ける神奈川県出身の河原啓一郎さん(28)は16日、西安などで集めた薬など60キロを持って、貴州省の貴陽にいた。

 

 その夜、河原さんは中国人の仲間ら2人と食事を終えて店を出た後、30人ほどの中国人に取り囲まれた。「日本人は殺せ」。罵倒され、腕をつかまれ、殴られた。中国版ツイッター「微博」に「とても悲しい」と書き込んだ。

 

 8万件を超える反響が寄せられた。「本当にごめんなさい。彼らは中国人だけど友人などではない」「ありがとう。あなたが中国でしてくれたことは忘れません」「どうか分かってください。暴徒化する者もいるけれど、理性的な中国人もたくさんいると」

 

 河原さんは20日、被災地の、それも支援が届きにくい山間部に薬などを届けた。「人は、一人の日本人を『窓』にして、日本人を知る。仲良く暮らしたいと思っている日本人もたくさんいるのに、それを知らない中国人も多い。逆境の時こそ、日本人の行動を途切れさせてはいけないと思うんです」

 

 05年の小泉純一郎首相の靖国神社参拝などをきっかけにした反日デモ。10年の漁船衝突事件をきっかけにした反日デモ。その度に、二つの国の関係は壊れそうになり、音をたてて崩れていった。今回も傷の深さは計り知れない。それでも、二つの国は隣同士で暮らしていく。ガラスの関係の最後のとりでは、政治でも経済でもない。人だ。

 

 微博にあった書き込み。「大切なのは今の日本を理解すること。中日両国が決めた『二度と戦争をしない』という原則は、誰も突破することはできない」。そう信じている中国人はたくさんいる。29日は日中国交正常化から40周年。(上海支局)


 

【政治は政治、人は人】

 

2012年9月、中国雲南省彝良県を襲った地震。被災地支援に向かう途中、反日の集団に襲われるという悲劇に見舞われたが、その後多くの政府と警察に護衛されながら被災地に到着。全国各地からボランティアと支援物資を集めながら被災地で活動にあたった。

 

 

先日ある人から連絡が入った。

「私はかつて、反日デモのリーダーをしていた。しかし考えが変わった。間違っていた。君を支持する。本当にすいません。」

 

人の心は人の心によって変わる事ができる。

失った理性なんて、取り戻せばいい。

 

自分も理性を失いそうになった時、尊敬するマザーテレサの言葉を思い出す。怒りや悲しみで前が見えなくなった時、心に刻んだこの言葉は僕に一定の道筋と理性を取り戻してくれる。

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《それでも》

 

人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。

 

それでも彼らを愛しなさい。

 

もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。

 

それでもいい行いをしなさい。

 

もし、あなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。

 

それでも成功しなさい。

 

あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。

 

それでもいい行いをしなさい。

 

誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。

 

それでも誠実で親しみやすくありなさい。

 

あなたが歳月を費やして建てた(完成した)物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。

 

それでも建て(完成し)なさい。

 

ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。

 

それでも彼らを助けなさい。

 

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。

 

それでも一番いいものを分け与えなさい。

 

 

 

ストローと割り箸で何かを作って遊んでいる男の子達。

画用紙に色鉛筆で絵を書いて遊んでいる女の子達。

瓦礫の中を車で2時間程走った山の中にも、都会と変わらぬ子供達の笑顔があった。

しかし彼らが数日前まで住んでいた村は土砂崩れと地震で壊滅。中には家族を失った子供達もいた。

 

臨時に設置されたテント村。

まさか一生のうちで自分が仮設テントで寝泊まりをし、机も教科書もない仮設テントで作られた小学校で勉強をするとは思っていなかっただろう。

 

「薬」はこの村に届ける事にした。

 

 

 

僕らがこの村を去るとき、子供達がお礼にと、唄を歌ってくれた。

唄の歌詞の意味はわからなかったけれど、最高の笑顔と可愛い手の振り付けに感動。涙が出そうになるも、子供の前で涙は見せない。

実は歌詞の意味がわからないのは僕と遠藤さん(もう一人の日本人ボランティア)だけではなかった。あとで聞いた話、この子供達もわからないのだという。メロディーだけで歌っているのだと。

教育水準の問題か。いや、思えば僕だって小学校のとき歌った歌の歌詞なんてほとんど理解していなかった。音楽の先生に歌いましょうと言われカノンを歌うが歌詞の意味などわからないし気にしてもいなかった。この子達も同じなのだろうか。彼ら独自の言語と、普通語(北京語)は全く異なるゆえ、彼らからすれば他の中国人の話す言葉や、この歌の歌詞は外国語のようなものだ。だとしても、彼女達の声は僕らの心にちゃんと響いていた。

 

動画サイト:YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=Op5z8jZUWJg

サイト:Youku

http://v.youku.com/v_show/id_XNDU1NDgxNjgw.html

 

仮設テント小学校。教室で子供達に手品を披露した。

子供達が驚き喜ぶ顔が見れて少しほっとした。

本当はゲームしたり、テレビ見たり、もっと楽しいことして、お母さんに怒られるくらいふざけ合って笑いころげてもいい年頃なのに、不幸にも起こった災害は彼ら子供達の生活をも変えてしまった。

 

動画サイト:Youku

http://v.youku.com/v_show/id_XNDU1NTA3NzM2.html

 

被災地の子供達にとって震災や洪水により受けた傷は体よりも心の傷の方が深く、薬では治せないケアが必要だ。先日、云南彝良震区にある学校の先生から知り合いを通じて連絡が入り、子供達の心理カウンセリングをお願いされた。ネットを通じて中国中に呼びかけ、専門知識のある方の協力をお願いしたところ、数名の志願者からの応募が来た。

 

子供達の笑顔がない村なんて、寂しいもんね。

 

 

しかし数日後、残念な知らせを聞いた。

仮設の小学校の運営が厳しくなり、廃校になってしまったそうだ。十分な教育物資と、教員の不足が原因。今子供達は山道を片道1時間近く歩き、3つの学校に別れて通っている。

 

悲劇はそれで終わりではなかった。

 

9月17日、豪雨が作り出した土砂ダムが決壊し、十数メートルも量を増した濁流は流域の村を飲み込んでいった。

 

そして忘れもしない10月4日午前8時、新たな大規模土砂崩れが発生し、授業中だった小学校の子供達18人が学校ごと生き埋めになり、周辺の農家の住民と合わせ19人の尊い命が亡くなった。

 

「もし神様が居るのならば、もうこれ以上の悲劇を止めて欲しい。」

住民は泣き崩れる。

「現実とは思えない、思いたくない光景だよ・・。」

東日本大震災の復興支援で宮城県石巻に居た時に皆の口から出た言葉が、今、中国の雲南省で僕の口からこぼれ出た。

 

 

厳しい山道を通り抜け、一路この日の作業場所となる彝良県の小さな村へ。車は泥を被り真っ黒、後日洗車した後こんなに白かったのかと驚いたほどだ。洪水により道路がえぐり取られ、車が通行止めになっている狭い場所を村人と道を譲り合いながら歩く。今にも足下の地面が崩れ落ちそうで恐怖だった。この先にも村は点在するが、バスが通れない今、住民の交通手段は徒歩か地元の車に乗せてもらうしかない。

 

土石流で埋まった家々からはかつての原型は見えない。屋根に貯まった泥と岩をどんどん落として行く。8人でやっても、丸一日かかって運んだ土砂はおそらく一割以下。

 

「気が遠くなるな、こりゃ。」

 

僕がそう言うと、唯一の他の外国人ボランティア、シンガポールからきた19歳の優しい青年が、

 

「少しずつやりましょう。今日終わらなくても、諦めなければきっといつか終わります。」

 

なんてけなげな青年だ。彼はこの雲南地震支援と、この後に行く予定のかつてのハンセン病隔離地域にボランティアに行く為に単身飛行機で中国に乗り込んで来た。

 

 

休憩時、和みのひととき。

一匹の綺麗な蝶が僕の腕に止まった。離れない。食事中でも離れない。

良い香りだから?それとも臭いから?

 

後ろで誰かが言った、

「天使が舞い降りて来たんだよ。」

 

うん、天使は臭い人には降りて来こないよ。

後から地元の人から聞いた話によると、中国では人が亡くなると蝶になって元の世界に戻って来ることがあるのだと言う。

 

 

同行した通訳から衝撃の一言が伝えられる。

"ボランティアひとり残らず全て退去"

政府はこんな通知を出そうとしていた。この国の災害とは悲しくも腐敗官僚にはビジネスだが、災害復興(99%)は本来政府がすることであり、ボランティアが復興に関わることは政府にとって目障りな事。ましてや国外からのボランティアとなると尚更。

一方で政府からの支援は限られ、特に山間部は滞っている。上に意見を言えない社会ゆえに被災者は残った資源で耐え忍ぶのみ。

減らされた故にさらにボランティア"0"という最悪なケースだけは避けたい。

 

 

 

そこで僕らが2日後に離れる事を交換条件に、中国国内の中国人ボランティアを受け入れることを許可するようにと交渉した。もし、受け入れないのならば、僕はここから絶対に動かない。そう強く押した。

半日程話し合い、向こうも考えた結果ついに折れ、受け入れの再開を許可。

そして僕らは去る事になった。

 

当初1、2ヶ月滞在する予定だったが、思わぬ展開に。

しかし僕一人がここでスコップを持って作業するよりも、100人呼んで100倍の力で支援した方が効率が良いのは明白。

 

【ひとりの百歩より、100人の一歩】

 

被災地に入ってみないとわからなかった深刻な問題が見えた。僕だから出来る支援の方法も見えた。

 

 

翌週北京にて、雲南省の被災地から戻ったばかりの同じNGOの歯科医師とオンライン共同チャリティー講演会を開く為の打ち合わせをしていた。彼が嬉しそうに話しながら見せてくれた写真には黄色い手袋と綺麗な青い長靴を履いているボランティア達の姿だった。

やむ終えない取り引きにより被災地彝良を去ったが、新たなボランティア達の為にと僕が送った段ボールいっぱいの瓦礫撤去・泥かき用の作業道具だった。彼もそれを使ってくれたのだという。

 

そして忘れられぬ、小学校が丸ごと埋まり18人の子供達が亡くなってしまった悲劇の日。軍が救助にあたったが、手袋もなく素手で作業をしていたという。その時、僕が贈ったゴム手袋が配られ捜索に使われたのだという。小さい事かもしれないが、連日続く悲しいニュースと自身の心の疲労を少しだけ癒してくれる知らせだった。

その場にいなくても、出来る支援てたくさんあるんだよね。

 

"ボランティアを支援するということは被災者を支援するという事"

 

 

その後中国各地の民間や企業から集まった支援物資はボランティアによって平等に配布された。そして僕自身は、首都北京にてもっと強力なパートナー達と多くの支援物資を集め、数週間後再び二回目の被災地に入った。

今回はweibo(twitter)や公には公表せず、内密に活動することにした。知り合いの運送会社がトラックの二台満載の支援物資を無料で北京から被災地近くまで届けてくれる事に。さらには日産自動車の中国支部、鄭州日産がスポンサーとして協力して下さり、車と数人のドライバー、活動資金を提供して下さる事に。

 

 

そして広州から子供500人分の手袋・マフラー・帽子のセットを積んだ車を運転して来たレスキュー隊の隊長さんや各地から自費で駆けつけてくれたボランティア達と共に、リストにした支援が行き届かない村々を端からかけまわった。

 

 

『ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。』

 

『それでも彼らを助けなさい。』

 

 

2014年7月30日 河原啓一郎

ドキュメンタリーTV

★ 2012-10-23 冷暖人生 "鬼子"奇遇记

http://v.ifeng.com/news/society/201210/962a75d6-6b0e-4f04-b70c-021a4deef8e8.shtml