株式会社エバニュー

いつも新しい何かを 株式会社エバニューのあゆみ

1963年(昭和38年)

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「記録映画部設置」

記録映画部を設置し、自主16m/m映画の製作と公開を始めました。登山家・プロスキーヤーを講師に迎え、全国70ヶ所で映画会を開催し啓蒙・普及活動に努めました。登山やスキーの技術解説の目的のほか、まだテレビが普及していなかった当時の社会に、娯楽を供給する側面も持っていました。会場はいつも満席で、登山・スキーのエバニューというイメージを全国に知らしめました。映画会は、以後20年間、全国を巡回して行われました。

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1964年(昭和39年)

「東京オリンピック開催」

1965年(昭和40年)

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「増新からエバニューへ改称」

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新館の完成に合わせ、株式会社エバニューへ社名変更する。この年、1962年から1964年まで在籍されていた芳野満彦氏がパートナーの渡部恒明氏とともに、マッターホルン北壁の日本人初登攀に成功しました。
芳野満彦氏:1931-2012 東京生まれ。登山家で画家。中学生時代に八ヶ岳で遭難、凍傷により両足指を全て失う。大きなハンデを負いながら不可能と思われることに挑戦、成功し続ける姿に勇気づけられた人が多い。その姿は新田次郎原作の「栄光の岸壁」のモデルとなった。著書に「山靴の音」「われ北壁に成功せり」などがある。

1968年(昭和43年)

「ホエーブス発売」

当時コンロはエバニューオリジナルの他に、オーストリアのホエーブスを扱っていました。後にコンロの代名詞ともなるホエーブスは、ヒマラヤ遠征など過酷な条件のもと、冬山登山者に勇気を与える存在でした。通称「ブス」と呼ばれ、多くの人に愛された名器は、残念ながら1989年オーストリアの会社が解散し製造中止となりました。

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1970年(昭和45年)

「大阪営業所開設」

大阪市中央区に大阪営業所を開設する。同じ年、当社に1961年から1964年まで在籍されていた三浦雄一郎氏がサウスコル(8100m)地点から2.5kmにわたりスキー滑降に成功。73年発行のギネスブックに、「最も高い地点からスキーで滑った男」として記録されました。

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1974年(昭和49年)

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「蔵前から木場へ移転」

業容拡大に伴い蔵前から、
木場に移転し新社屋で営業を開始する。

1980年(昭和55年)

「スーパーライン引き100万台突破」

スーパーライン引きシリーズの累計販売台数が100万台を突破。ピークの1960年代には、A型で年間6万台も販売しています。写真はA型が最も売れた60年代と100万台突破時のモデルです。

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1987年(昭和62年)

「バブル景気の始まり〜平成へ」

日本経済はバブル景気に向かい絶頂期へ。当時の竹下内閣は「ふるさと創生3億円」を大盤振る舞いし話題を呼びました。

欧米のライフスタイルに影響を受けた30~40代の子育て世代が中心となり、週末に家族でRV車に乗ってキャンプ場に出かける。そんな日本型のオートキャンプがブームとなる一方で、アイドルグループの影響から、ローラースケートも過去最高のブームが到来。
催促の連続にパニック状態となる。

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1990年(平成2年)

「法人化40周年」

1994年(平成6年)

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「チタン製コッヘル発売」

チタンという素材、実は必ずしも軽いわけではありません。アルミの6倍、一般鋼材の2倍の強さを持っているので、同じ強さの製品をつくるなら、当然少ない材料で済みます。エバニューはいち早くそこに着目し、肉厚わずか0.4mm、材料メーカーでさえ不可能としていた薄板ナベの加工技術を確立しました。その後、発売されたウルトラライトシリーズでは、0.3mmの加工に成功しています。

構想から2年、加工が難しいと言われた
チタンコッヘルの開発に成功。
数えきれないほどの失敗、試行錯誤の繰り返し・・・
職人の、ものづくりに賭ける情熱が、
“世界初のチタン製コッヘル”を誕生させました。

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